何もない一日じゃないはず

頭をひねれば、なにかは出てくる

教養とは

「教養がある」とは「知識がある」ということではない。

学生時代に勉強ができたからといって「あの人は教養があるね」とはならない、と言えば誰もが納得するだろう。

しかし「教養がある」と使われた場面を振り返ってみると、何々の歴史を知っていてその説明をしてくれた時など、知識があることに対して使われていたように感じる。

言葉の意味とは時代が経つにつれ変わっていくものであるため、教養があることを知識があるとイコールとしても良いのかもしれない。今の使われ方がそうなのであれば。

私が思う「教養がある」とは、「知識をもとに応用ができること」だと思っている。

断らなければならないのは、知識はあることが前提条件ということだ。ただ知識の使い方がどれだけスマートか、これが大事になってくる。

例えばある建物の歴史を知っている人が、別にそこの建物にいるわけでも、その建物が話の中に出てきたわけでもなく急に建物の歴史の話を始めたら、「この人はなんて身勝手な人なんだろう」と思うでしょう。「教養があるね」とは間違ってもならない。適した理由もなく知識をひけらかすのはおかしなことである。そもそもこの世の何もかもを知ることなど不可能なのだ。

逆に教養があるとは、例えばある建物を見に行ってそこの歴史は知らなかったとする。しかしその建物と自分の知っている建物の構造が似ていることや、その地で他に知っていること等を繋ぎ合わせて推測を述べることができる。これが教養なのではないかと思う。

人付き合いでもただ単にレールに乗った会話をするのではなく、以前の会話やその場の雰囲気を感じ取り必要な話題提供をするのが教養なのである。

知識に基づく応用力こそが教養であり、全部は知らないが考えることができるという心の余裕こそが教養なのである。

 

さて私自身「教養がある」人間なのかということだが、この話の例示のボヤッとした説明から感じたかもしれないが、全くの知識不足である。ちょっとも語れることがないので、とりあえずは勉強を始めたいと思います。