何もない一日じゃないはず

頭をひねれば、なにかは出てくる

忘れんぼう

学生の頃は自分のことを勉強ができると思っていたし、社会人になってからは自分のことを仕事ができると思っていた。勉強ができるといっても偏差値60くらいだし、仕事ができるといっても言われたことを時間内にやれるだけで抜きん出た凄さはない。

今の仕事を始めて3年、だいぶ仕事にも慣れてきた。その慣れによって最近ミスが出始めた。

ミスとは主に「やることを忘れてしまう」ということ。

幸い今現在までは大きなミスには繋がっていなく、同僚や上司からのリマインドで「あ、忘れてましたすぐやります」でなんとかなっているわけだが、その数がめちゃくちゃ多くなっているのだ。些細なこと(とはいえ大事な)伝言だったりをよく忘れてしまう。「〇〇さんから折り返し来ないんだけど!」と言われ「あ、伝えるの忘れてました」となることの多さは自分でもびっくりしている。

書くと他人事感が出てしまうが、ちゃんと考えるとマジでヤバい。これは俺の信用問題に繋がる。

もちろん手帳にメモしたり、ふせんをはったり、関連資料にメモを取ったりはしている。メモを取ったことは忘れずにできている。あたりまえ。

問題は自分の中で「これは流石に覚えていられるし、すぐできるからメモらなくていいかな」ってのに限って忘れる。これもあたりまえ。

忘れすぎて流石にヤバい。どうにかしたい。これじゃああれだけ嫌っていた「仕事ができないやつ」そのもの。仕事ができない同僚に対して「アイツ何やっても遅いよなー」なんて言ってたけど、俺の方が酷い。スピードが遅いレベルじゃなくて、そもそも忘れてやってないのだから。

自分への戒めを込めて書いてみた。書くことで「自分は忘れっぽい人間だということ」を忘れないようにするために。

20190822

先週はお盆で夏休みだったこともありとても時間があって、「時間があるから何かしよう」と思って始めたのが「伝えたいことが特に無い日記としてのブログ更新」だった。ツイッターを見ていると140文字に収まりきらない文章をnoteに書いている人が最近は増えている。ツイッターの連投は見づらいしそもそもツイッターの公式アプリは見づらいしで、まとまった文章を書けるフォーマットを探し見つけたのがnoteなのだろう。なるほどnoteは「まとまった程よく長い文章」を書くにはとても適している。きっと文章もパソコンからではなくスマホからそのまま打ってるのだろう。手軽に投稿これがカギだ。

ほぼ1年ブログは更新してなかったし、この際私もnoteを始めようかなとも思ったんだけど、「文章を書くのはブログでもできる」というあたりまえ体操でも採用されないレベルのあたりまえを思いついたのでこのブログに書くことにした。「ブログは千文字以上」なんてルールはもちろん無いからね。

書いていると「これくらいの分量なら毎日書けるわ楽勝っす」ってなったわけだけど、それは最初の3日間だけで、その後は気づいたら日付が変わってて夜眠い目をこすって更新という日が続いた。ブログに限らず何かを続けることは難しい。

日記を書くのはその日1日を振り返る良い機会なのはもちろん、将来自分が読み返すとたとえどんな稚拙な文章でもどんなに内容が無くても楽しくて、この文章だって1年後、5年後、10年後の自分へのプレゼントとも言える。

未来の俺よ、この日記を読んで楽しいか?

 

教養とは

「教養がある」とは「知識がある」ということではない。

学生時代に勉強ができたからといって「あの人は教養があるね」とはならない、と言えば誰もが納得するだろう。

しかし「教養がある」と使われた場面を振り返ってみると、何々の歴史を知っていてその説明をしてくれた時など、知識があることに対して使われていたように感じる。

言葉の意味とは時代が経つにつれ変わっていくものであるため、教養があることを知識があるとイコールとしても良いのかもしれない。今の使われ方がそうなのであれば。

私が思う「教養がある」とは、「知識をもとに応用ができること」だと思っている。

断らなければならないのは、知識はあることが前提条件ということだ。ただ知識の使い方がどれだけスマートか、これが大事になってくる。

例えばある建物の歴史を知っている人が、別にそこの建物にいるわけでも、その建物が話の中に出てきたわけでもなく急に建物の歴史の話を始めたら、「この人はなんて身勝手な人なんだろう」と思うでしょう。「教養があるね」とは間違ってもならない。適した理由もなく知識をひけらかすのはおかしなことである。そもそもこの世の何もかもを知ることなど不可能なのだ。

逆に教養があるとは、例えばある建物を見に行ってそこの歴史は知らなかったとする。しかしその建物と自分の知っている建物の構造が似ていることや、その地で他に知っていること等を繋ぎ合わせて推測を述べることができる。これが教養なのではないかと思う。

人付き合いでもただ単にレールに乗った会話をするのではなく、以前の会話やその場の雰囲気を感じ取り必要な話題提供をするのが教養なのである。

知識に基づく応用力こそが教養であり、全部は知らないが考えることができるという心の余裕こそが教養なのである。

 

さて私自身「教養がある」人間なのかということだが、この話の例示のボヤッとした説明から感じたかもしれないが、全くの知識不足である。ちょっとも語れることがないので、とりあえずは勉強を始めたいと思います。

20190816

ツイッターでその文字も見ない日は無いくらいの勢いなので『全裸監督』を観始める。

3話まで観た。なるほど確かにおもしろい。『半沢直樹』を観てからというもの「主人公苦境に立たされると観てるこっちが辛くなる病」を発症した私は主人公に感情移入をしてしまい続きが観れなくなってしまうことが多い。でもこれは「最終的に成功するんでしょ」と思って観ていられるので大丈夫です。

『全裸監督』が世間でウケてるのは規制の厳しい日本でおっぱい丸出しセックスシーンも多いドラマを作ったからでは無いかと。日本はエロ市場が発達してるんだから切っても切れないエロを民放ドラマは根こそぎカットしてるからね。くちびるとくちびるが触れ合うだけのキスでみなさん満足します?するならいいですけど…。もちろんしょうがないのは重々承知で、エロ無しでもおもしろい話はじゅうぶん成り立つからね。

話題になる映画はセックスシーンをはじめとしてエロ・セクシー描写がちゃんとあったような気がする。日常生活シーンの精密さとして。いや、そう思うのは私のエロガキ脳のせいかもしれません。

20190815 バスの思い出

バスに乗る。整理券を取る。整理券を無くさないように握りしめておく。整理券が手汗でふにゃふにゃになる。出すのがちょっと恥ずかしい。

バスに乗る。席を選ぶ。タイヤの上だと膝が高くなってちょっと非日常。ちょっと楽しい。隣の人は普通の高さ。自分だけ膝がこんにちは。幼稚園児みたいでちょっと恥ずかしい。

バスに乗る。乗り物酔い防止のために窓際の席が良い。胴体部分の横向きの席は酔うからNG。いちばんは胴体部分の1人掛けもしくは最後尾窓側。どちらにせよ臭いで結局酔う。窓を開けたい。

バスに乗る。降車ボタンを押す。子どもの頃は押したくてたまらなかった。今でも押したくてたまらない。

バスに乗る。スイカをタッチ。小銭のことなんて考えない。両替なんてもちろん要らない。「いまどきIC決済ですよ」とクールに去る。整理券もいらないね。

車に乗る。前にバス。乗降中。邪魔だな。あわよくば抜かす。心の余裕がある時は待つ。余裕がある時なんて無いので待たない。止まっているときは行けないだけ。

バスに乗る、ことは随分減ったけど。いろんな思い出がある。