何もない一日じゃないはず

頭をひねれば、なにかは出てくる

子どもの頃の作文体験

 

私が小学生・中学生だった頃、文章を書くといえば原稿用紙に手書きというスタイルであった。きっと今でもまだこのスタイルをとっている学校が多いであろう。

年に何度か作文をしなければならないことがあり、学校はその都度約1時間授業時間を割いて生徒たちの作文の時間に充てていた。そこでの私の記憶というのはいつも「こんなみんながいる前ですらすら書けないよ」「書いたら書いたでみんなから無駄にもてはやされちゃうし」などと考えていた。

ちなみに私は今になってもこんな駄文を書いているくらいなのだから作文自体は楽しいと思う人間だ。自分が誰かの文章を読むのが好きなのだから、その裏返しとして自分で書いたものを誰かが読んで少しでも面白いと思ってもらえたらそれはものすごく嬉しい。

話が逸れてしまったが、何を言いたいのかというと、授業中の作文の時間は無駄だと思っているということだ。

あんなところじゃ恥ずかしくて書けやしない。授業中のメリットとして教師に質問ができるというのもあるが、そんなことも恥ずかしくてできない。「何頑張っちゃってるの?」とか言われて(思われて)おしまいだ。努力はかっこいいとされていないあの頃なのだから。見えないところで努力することの美学というものを誰からも学ばずとも知ってしまうあの頃なのだから。狭い世の中で固定観念バリバリの子ども時代ならではのことだが。

 

そして原稿用紙に手書きだった悪影響は今になっても残っていると感じる。

私がキレイ好きだからかもしれないが、いくら下書きといっても汚せる範囲内でしか推敲できないからだ。だいたい隙間なんてそんなに無いし、字を小さく書くのも面倒。別の紙に書いたら清書をする際ごちゃごちゃになってしまうかもしれない。

PCなどで文章を書いていたら簡単に消すことができるし、順序を入れ替えることだって容易い。思いつくままにガーっと書いていき、あとで好きなだけ直すことができる。あの頃は書く前に必死に考えなければならない。どんな順序で話を展開すればいいか、このエピソードに漏れは無いか等々。書いている途中に思い出してしまったら最悪だ。

 

きっと手書きで文章を作成する時代はそろそろ終わるだろう。エコでもないし。だからといって手で書くこと自体はなくならないだろうから心配はいらない。次第にキレイな文字を書けることがものすごい価値を生むことになっていたり、すらすらと漢字を書くことができればモテる世の中になっていることだろう。今でもそうかも。ノスタルジックな気持ちばかり先行してしまいがちだが、良いものは良いと認められる人になりたいものだ。

 

という文章もガーっと書くことができたから超気持ちいい。